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08 | 2005/09 | 10
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ソフトテニス界の放浪詩人アゴイ!のブログです。
アゴイ!の高校時代の物語 その4 昔のインハイ予選
 (風前のともしび)
 2年の秋、後衛で有力な部員を退学で失うという事件発生、これでは無理だ。おまけに3学期に学力不足で一人の1年の前衛が部活動禁止となり、なんと練習している部員が5人!(2年4人1年1人!)

 団体でインハイに行くなんて、これまでか、と思ったのですが、次に入ってくる後輩で補充すれば、大会には出れる。
 教員連中に団体でインハイにゆくなどと、でかい口たたいて、しまったなあ。と言うのが本音でした。
まあ、何とかなるわい。春よ来い!
 
 (県北部大会優勝)
4月すぐ、学力不足だった部員が復帰。これで6人。新学期10人ぐらい入部。2人を補欠。何とかチームとして成り立ち、4月末は県北部大会。エントリーは8郡市から20チーム、団体戦でした。
 1年の時、先輩の急病入院のピンチヒッターで出て、無我夢中で打ちまくって団体優勝していて、2年後、今度は私が主将でした。
 私が1番目、プレッシャーの中、スランプをくぐり抜けて来た身には、もうそんなに緊張することもなく、力が出て、全勝。
 2年ぶりの優勝でした。

 夕日の中で、菊池市と言うところ、高台の農業高校の入り口で迎えのバスを1時間以上待っていたことを思い出します。

(インハイ予選)
 その他にもローカルな大会はあったはずなのに、お金がなくて、出る機会がなく、ましてそのころ各家庭に自動車などあるわけなく、遠征も出来ず、出た試合は、前述の北部大会、インハイ予選、そして国体予選の3回なのです。これが昔の選手生活でした。都会はまた違っていたと思いますが、とにもかくにも1学期の試合はそれだけだったのです。

 5月末、梅雨寸前、一発勝負の団体戦でした。2回戦は熊本市内の進学校、2組も後日の個人戦でインハイ代表権を取ったチーム。一筋縄ではいかず、苦労の末、下しました。
 次は県南の農業高校、油断した私は敗退。2番目は1-3となり、もうほとんど死に体。後年天皇杯にも出る、A君が調子を取り戻し、逆転勝ち。3番勝負となり、後輩が見事に勝ち、突破。
 このチームは強くなる、と直感したのですが、その翌年、このチームは優勝、10年間ぐらい、この県南のチームの県内の天下が続きました。

 さて、勝ち進み、決勝となりました。まさかここまで来れるとは。学校始まって以来の男子決勝進出です。
 3本つないで、1本攻撃というパターンで、勝ち進んだ私は、トップ打ちに少し違和感があり、ウオーミングアップに1本打ちをしたかったのですが、それまで調子が良かったと言うこともあり、まわりからよけいなことをするなと止められました。

 さらに夕方6時半、薄暗くなったコートで決勝。そのころ県NO1と言われた、1番手とあたり、2-4の敗戦。あのトップ打ち練習を5本でいいからをやっていればよかった、悔やみました。
 後年、指導するとき、試合直前、なんかやりたいことはないか、不安部分はないか、と生徒に聞くのが常になりました。違和感は出来るだけ消して、コートに出てゆかせるためにです。
 2番目も力尽きて敗戦。3年越しの私の目標、団体インハイ出場はなりませんでした。でも、初の九州大会出場権を得たのです。

 ちょうど、あわわさんが、今年同じ立場になられましたね。

 後日、先の生徒会顧問の先生が私に、「あんなに努力したのに、残念だったなあ。夕方ボールが見えぬと試合を断ればよかったのに、、、、。」と涙ぐまんばかりに同情されるのには驚きました。
 実を言うと、2年の秋、生徒会長を断ったときには、確かに勝算はあったのですが、先に書いたようにその後事件は相次ぎ、どこまで行けるかわからなくて、準優勝というのは出来すぎと言う面もあったのです。

(個人戦始まる)
 個人戦の2日目の朝、私は気合いを入れるために、水垢離をしました。ところが、水が耳に入り、出てこない。なんか音がする。気になって仕方ない。試合が始まっても、ごろごろするので、ケンケンして頭を傾け水を出そうとするがだめ。
 相棒にも恥ずかしくて言えず、そのまま3回戦、4回戦と勝ち進み、
ました。5回で16本、そして代表権決定の6回、とても暑い日でばてていた私はふらふらでした、3-3に追いつかれた時に、先輩の女性の声が反対方向の観覧席から響きました。○○高ファイトー!。たった1人の外部の人の放った応援の声。びびびと来た私は、詩「空」のように勝つことが出来ました。
 たかが応援、されど応援。これ以来私は自分の応援を効果あるものにしたいと、いつも思うようになりました。

 次も勝ち、4本。しかしそこで力尽きました。2年の秋16本だった私、長いスランプをくぐり抜けて、伸びに伸びてここまで来た。もちろん大感激でした。運動神経などほとんどだめな私、走るのも遅い、でもソフトテニスは出来た。それには県ナンバーワンの前衛技術と言われた相棒のおかげでもあり、最新の情報と練習する機会を我々に与えた師匠のおかげでもありました。

 
 
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【2005/09/30 21:13】 | アゴイの少年時代 | トラックバック(0) | コメント(0)
アゴイ!の高校時代の物語 その3 師匠様
 (3年の春)
 伝統の力というのは確かにありますね。一口に言って、受け継いできたレベルの高さ、その学校が持つ常識と言うか、これくらいは出来なければならない、と言うレベルがあって、それが出来て当たり前。ところが他校ではそのレベルにはない。
 
 1年に入ってきた後輩が、何で先輩はどんどん勝つのですか?と素朴な質問をされて困りました。
 大学に進学した数少ない先輩がもたらした新しい技術を、どん欲に吸収してきて、また師匠(高校監督、体育教師)の最新の教え方のおかげで、ずいぶん強くなったと思います。
 あの環境の中で最新の技術、駆け引きは、今でも十分通用しています。

 (師匠のこと)
 師匠は生きていればもう92歳ですが、5年前に亡くなりました。
人は厳しい人だったと言いますが、私は怒られたことはあまりありません。もちろん殴られたこともありません。
 注意されたり、罰としてランニングとか、そんなものはありましたが、それは約束事のうちです。
 
 感謝という言葉では表現できません。卒業して20歳ぐらいで、師匠の目の前で試合に0-4で負け、自分が情けなくて、コートの隅に正座していたら、いい大人が馬鹿なことするな!と止められました。

 もちろん、人間ですからいろいろ欠陥はありましたが、差し引き多くのプラス材料を与えてもらったと思います。人間同士のつき合いは、自分にとってプラスが出れば、それでよし。感謝すべし。マイナスでも、反面教師と言う言葉があるくらいなのに、たとえ師匠に対してさえも、
自立して、向かうべきだと思うのです。

(コート横のテーブル)
 5月、インハイ予選前の厳しい練習のあと、通学の距離がわりと短い者4,5人が、ボールの見えなくなったコートの横のテーブルがあって、そこで、師匠を囲み、雑談を毎日しました。
 自然発生的に始まったのですが、師匠はその時50歳ぐらい、我々は17,18歳、いったい何を話したのか、よく覚えていません。
 しかし、その時の厳しい顔の師匠が夕暮れの中でにこにこしていたのを思い出します。この充実の約1ヶ月を私は強烈に忘れないでしょう。 
 たぶん練習の反省をしていたのだと思いますが、紋切り型の反省ではなく、心の動き、作戦のヒントなど、議論し合っていたように思います。今思えば年齢を越えて友人のように、我々の話を聞いてもらったように思います。

(団体でインハイへ行くのだ)
 3年間をかけた目標は、団体でした。校内予選は1ヶ月統計を取った結果、我々が1勝の差で一位でした。この差が後で個人戦で明暗を分けることはまだ知りませんでした。
 
 しかし、団体戦。どうやって熊本市内の強豪を破るか、それは工夫しました。ほとんどイメージトレーニングと言うやつでしょう。当時応援を連れてゆくことは出来ませんでした。バスで1時間40分かかる市内へ選手補欠8名と師匠の9名。この少数で戦うことで、何が想定されるか?
 気後れです。これを克服するには、まずルールへの精通でした。選手自身が堂々と抗議し、訂正を求める行動が出来なければだめです。
 相手は鈴なりの応援団付きで来る、こちらは9名で戦う。絶対引くな、調子が出ないときは堂々と間を取れ、時間を稼げ。
 
 話が前後しますが、団体準々決勝、1番目我々の試合、相手は市内の高校、100名ぐらいの応援団、こちらが優勢でした。試合の切れ目に応援席から「だいたい、○○高校なんてどこにあるのかぁ」とヤジが飛びました。こんな時どうするかちゃんと話し合っていました。すぐ審判を通じて応援席に聞こえるように大声で抗議。すっ飛んできた審判長が相手監督に注意。
 これで応援席は意外なわれわれの行動に、しゅんとなり、選手までも萎縮し、楽勝。

 他、イメージ練習として、朝ほとんど調子が出ないことを想定。
 わざと休日の朝、素振りとぽんぽんしかウオーミングアップをせず、いきなりゲームをやってみたり、最初のサーブはセカンドをいきなり打つ。
 などなど、企業秘密もありますが、それはそれは工夫したものです。


 ではまた次号のお楽しみ。
 
【2005/09/24 00:07】 | アゴイの少年時代 | トラックバック(0) | コメント(0)
四国松山訪問9月レポート


16年後のインハイソフトテニス競技愛媛県代表。と保護者。
すみません。デレデレとこんな画像で。しばらくぶりの松山行きでした。

 (ちまたでは熱戦が行われているというのに)
 片道飛行機に乗って、行って来ました松山へ。飛行機に乗ったとたん眠ってしまい、すぐに衝撃で目が覚めたら、松山空港。たった25分。
 えりっちさんのブログにあるとおり、県民体育祭があっており、我が町からも郡代表で出場、我が家から150キロあり、迷った末に失礼して、孫娘と子との交流に出かけ、上の癒される画像です。
 
 (女の子の育て方?)
 知りません。区別があるのかも知りません、まず兄弟が4-1で男ばかり、私の子供も男ばかり二人、そして隣の兄の家、男の子ばかり3人、どう接して良いのか???

 したがって画像の子、2泊3日いたのに、ついになつかず、抱くと逃げ出す仕草ばかり。連れ合いは見事になつかせてしまいました。
 作戦がまずかった。9月5日生まれ1歳になったばかり。

 (芸術家との出会い)
 松久節子さんという、ちぎり絵作家が息子の団地近くにアトリエを構えていらっしゃいます。(75歳、広島生まれ、数々の賞を取っていらっしゃいます。ヨーロッパ各地で個展開催。被爆者でもある)。
 去年偶然知り合いになり、今回も行くと、喫茶室で大歓迎。(次のブログに作品の画像を載せます。)

 詩人「坂村真民(さかむらしんみん)」の話題になり、96歳となり、療養中で誰にももう会わないとされているけど、私が仲立ちをするから、会ってゆきなさい。でもだめかもしれない。明日9時に私を迎えに来なさい。
 と強く勧められました。

(坂村真民のこと)
 坂村真民は熊本県荒尾市出身、仏教華厳宗の影響を強く受けた詩集を数多く出しています。有名な言葉「念ずれば花ひらく」という言葉は、どこかで目にされた人も多いのではないかと思います。
 いい言葉ですね。念ずれば、と言うのは念仏を唱えれば、と言う意味ばかりではなく、長年集中して努力すれば、と言う意味ですよね。
 我々スポーツ者にも通じますし、では「花」とは何か、とも深く考えさせられます。

 実は真民さんは少年時代、三年間私の父親の里(玉名市岡)近くに暮らしているのですが、彼の詩集の中でそれを発見。驚きました。なんという偶然。年齢も父とほぼ同じ、ご存じかも知れないと、会って聞きたいものだ、と思っていたのです。
 
 しかし、なんのつき合いもなかった私、このごろなんか付け焼き刃で詩集を読み出し、ほほう、こんな人がいるのか、ぐらいの調子では、会っていただく方が失礼ではないかと考え、松久さんのお気遣いを一度は断りました。

 家の様子を知るだけでも良いではないか、本当は95%会えないだろうから、と再度強く勧められました。私は今後さらに作品を読むときに、どんなところでその作品が生まれたのか知るだけでも良いではないかと、考え直し出かける約束をしたのです。

(詩人には会えなかった)
 翌朝松久さんを車で迎えに行き、すぐ近くの重信川(しげのぶがわ)のほとり近くの家を訪問しました。娘さんが応対されました。真民さんの作品の中で何度も出てくる娘さんで緊張しました。
 訪ねた理由を話しましたが、もう誰も会えないということで、断られました。 せっかく訪ねられ申し訳ないと、真民さんのサイン入りの二冊の分厚い詩集とエッセー集をいただきました。

 人を訪ねるになんのおみやげも持参せず、熊本から来たというだけ、それもミーハー的に観光でもするかのように現れて、貴重な物をいただき、何とも恥ずかしい限りでした。さらに本屋さんで、作品をさがし購入して、読んで応えるしかないと思っています。

 そのあと、松久さんの案内で、重信川の真民さんの散歩コースを少し歩かせてもらいました。

【2005/09/19 23:01】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(5)
四国松山訪問 9月
 松山の息子が、4駆で2000CCエンジンの車、22万キロ、11年乗っているやつなんですが、維持に困っているので引き取ってくれないか、と言うことで、車引き取りの旅に出ることになりました。

 一家に車は一台で良いということです。それなら協力してやるかなと言うことです。

 マリリン(連れ合い、人間、法律上の私の妻)さんと片道飛行機の旅です。この福岡ー松山の飛行機がおかしくて、離陸して、水平飛行になり、乗務員が何かサービスするとすぐ着陸体勢に入りますとの放送。海をどんどん越えて降りてゆくと海岸の松山空港。
 どどんと着いて、この間約25分。(ANAのみ就航)
 私の場合、いつもジェット機なんですが、プロペラ機も飛ぶとか。明日はこれに当たればラッキーなんですがね。朝9時15分発。

 実は9/5が孫娘の1歳の誕生日でしたので、その祝いも兼ねて行くのです。そっちが本当は主目的。
 嫁さんと孫娘の「添え物」となっている(本人はそう思っていないけど)息子の激励に行きます。

 今年こそ、息子(24歳)は全日本に出場すべし。至上命令!なんです。競技はなんとスノーボード。

 それからもう一つ、斉美高校を見てきます。野球じゃないですよ、ソフトテニスですよ。校内にコートがあるのかまで、インハイで調べがついているので、あとは保護者の顔して見学。タイミング良く練習していると良いけど。なんかの大会に行っているかな。

 斉美はインハイ団体は2回戦で岡山理大付属に破れています。

 帰りは車でフェリーです。こっちは正味5時間の旅。
 2泊3日いません。PCおやすみです。道後温泉、もちろん行きます。のんびりしてきます。ではでは。 
【2005/09/16 20:32】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(1)
私の歌謡史
 (軍歌)
 みんなの掲示板で冬のあなたさんの最新替え歌をめぐり、交流が起こっていますが、言い訳を少し。
 正解は「見よ東海の、、」だったですね。すみません、知ったかぶりをすると、こういうことだ。
 
 軍歌はすばらしい歌詞と曲をもったものがありますね。一番好きなのは「出征兵士を送る歌」実に日本的な節回しです。右翼の宣伝カーがよく鳴らしています。意味わかっているのかな。
 「空の神兵」は歌詞はいいけど曲はバタくさい。「遺骨を抱いて」は
流行歌風です。

 何で詳しいかというと、昭和43年18歳で就職した私(農林省出先に)は、元予科練、元陸軍中尉、元海軍戦闘機乗り、元陸軍中隊長である40代の連中に職場でこなされました。
 宴会すると決まって出るのは軍歌。決まって「日本陸軍」。
 ところが、その前に幼いときから我が家には蓄音機(ちくおんき、手回し)なる物があり、78回転の金属の針で聞く軍歌のレコードがあったのです。
 で、何でも聞いて育っていて、そのころでも珍しい若者でした。

 40代におもねって、一緒に歌うと皆大喜び、調子に乗ってまた歌う。
 でも、20代後半から歌うことはなくなりました。考えが変わったからです。

 第一年輩者にも宴会で歌う人がいなくなりました。

軍歌のそのあまりにも悲しさに気づいたのでしょう。

(ダンパ)
 20代後半から。歌番組というものを見なくなりました。ラジオでも聞かなくなりました。合唱団とアコーデオン練習に打ち込んでいました。
 でもたまに聞くことがありました。メモを持ってテレビの前に座り込み聞くのです。なんのために?ダンパのテープを作るために。テンポとリズムをはかり、この曲はなんのダンスに使えると言うことをメモしてゆくのです。
 もちろん使えないのもありました。しかし、ダンパにその時どき流行している曲を流すのは一番盛り上がると言うことを知っていましたので、極力新しい曲を使うと言うことをしました。
 メモした曲を街のレコード屋で探し、テープ編集。90分のテープに当時の金で予算で1万円以上かけていました。著作権侵害。でも1回しか使わず、ちゃんと買ったレコードですから、、、。

 で、ここ30年ほどの歌がわからないのです。ダンパで使った曲は少し覚えていますがね。
(注)ダンパーーーダンスパーテイの略(念のため)

(持っているCDの一部)
 今気に入っている演歌「過ぎた昭和に春がある」。演歌なのに4/3拍子。いわばワルツのリズム。古い歌では小林旭の「北へ」これも4/3拍子ですね。
 他、新しいところでは平原あやか「木星」(曲は古いけど)
 大江光さんの癒し系の曲(CD3枚)、沖縄の新垣勉さんの歌(CD3枚)女子12楽坊の曲(CD4枚)

 なんか共通点ありましたら感想などどうぞ。
 ではまた。
【2005/09/12 21:09】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(4)
今夜もぼけた


我がスポーツクラブの今夜の風景。台風が昨夜は荒れ狂っていたなんて信じられない。よく見てください、我がクレーコートはソフトテニス専用なのです(ラインを引いてないだけ)。

(台風一過)
 タイフーン一家はチヨコさんファミリー。今夜の寒いギャグ。
 熊本が被害少々でした。
個人的にも、庭の木の小枝が折れたぐらいですみました。
 
 で、今夕台風でしばらく出来なかったウオーキングを45分やって、風呂、夕食、連れ合いが再び仕事に出かけ、手紙を書いていて、チラとブリッジを見て、「はっ!しまったー!」
 「今夜は例会だった。どーしよう。」
 すでに30分経過。それ出発と家に明かりは付けたまま、車で5分の会場へ。

 ぼけた、ぼけた、好きなテニスをぼけたっけ♪

 と言うことで、台風で昨夜は荒れ狂っていたコートもきれいになっていて、総勢14人ぐらいも来ていてにぎわっていました。他の団体が皆休みで、コートは使い放題。

 いきなり試合、打ち合っていたら吐き気。休んで、また女性の試合にもぐり込んで、走らされて、また死にそうに。

 でもいいですね。高校までやっていたというお母さんと、その子中学女子3年生が組んで我々と試合、本気出せよ、とつつくとぼかすか打ってくる。舌戦なら負けないけど、実力合計は、向こうがはるか上、0-3で敗戦。

 でも楽しかった。

 まだ台風は北海道縦断のニュースが流れています。
 みなさま、お見舞いの言葉ありがとうございました。こうやって健在です。

 ではまた。
【2005/09/07 22:20】 | ソフトテニス | トラックバック(0) | コメント(2)
タイフーンライブ情報
 午後4時45分、我が住居の周辺は峠を越えたようです。昨年もひどい目に遭い、今年もか、と思っていましたが、何とか被害少なく乗り切ったようです。

 雨がまだ心配です。また時折、ごーごーと吹き返しの風が吹きます。
外へは出られません。

 九州各地区、被害が出て、死者も出ているようです。午前中は仕事が出来ました。風は弱く、雨もパラパラで、本当に来るのか、と言う状況だったのですが、午後1時半、お待たせーと言わんばかりに、グオーッと吹き出し同時に大雨となりました。
 管理職、こんな時、どう出るかな?困っていたようですが、「帰ってください。」と来た。土砂降りの雨の中、わずか5分の通勤距離をすっ飛んで帰り、自宅待機。

 停電もなく、ずっとテレビで情報集め。東京都と四国の息子から電話もあり、大丈夫?そっちこそ大丈夫か?

 まだ、今後がわかりませんが、ライブ情報を終わります。今5時15分です。

 進路にあたる中国近畿北陸地方のみなさん、こちらで時間がかかった分タイフーンはエネルギーを失っていますから、ちょっとお気を付けられると大丈夫と思います。ただ雨にご注意ください。

 ではまた。
【2005/09/06 17:18】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(3)
ジュニア観戦記。
 熊本県の選手権でもあり、11月末の九州大会の予選も兼ねた大会を観戦しました。
 開会式を見ていると、高校生より態度がいいなあ。高校生は形は出来ているけど、真剣に聞いていないようなところがありますが、ジュニアは目が光っています。
 まあしかし、朝一番ですから、まだだれていない。

 もちろん、ブリッジポロシャツオレンジを着たえりっちさんにまず挨拶。私も初おろしで着てゆきました。県連盟のOさんが、「チヨコさんのHPのシャツでしょう?」と聞いてきました。「はいそうですよ。」
 お目当ては男子だったのですが、女子に二人、我が校の子が出ているので、会場が100mぐらい離れているので、一日中行ったり来たりして見てました。

 個人戦でした。えりっちジュニア(男子)はもちろん才能ありです。我が町チームペアとは対戦しませんでしたが、必ず伸びてゆくでしょう。
 Oさんのジュニア4年生は、ボールに食らいつくと言うか、反応が良いと言うか、なかなかの腕前。我が町のペアと準々決勝を戦いました。
 こちら6年ペア、なんとO君のペースに乗せられ、0-2の絶体絶命。3セット目にやっと調子が出て、今度は向こうが調子を崩し、逆転勝ち。3-2でした。

 九州大会代表権は8本、男子はこれに3,4位に2本入ることが出来ました。7月はじめの大会は優勝しているので、残念でしたが、しょうがないですね。また、これからです。

 ジュニアのチーム数も多くなっています。ほとんどが社会体育クラブですが、学校チームも2校ほどありました。
 男子が40ペア、女子が80ペアぐらいのエントリーでした。地区予選なしですので、熊本のだいたいのジュニアの現在の競技人口とも言えるでしょう。
 
 ラケットの方がでかいのでは、と思わせる小さいかわいい子が一生懸命ボールを追っているのを見るのは楽しいものです。

 雨が時折ぱらつき濡れもしましたが、楽しい一日でした。

 さあ、台風が来るぞ。さて雨戸締めて、飛ぶものを全部屋内に入れて、直撃すれば、明日学校は昼までか?。

 さけてくれることを祈っています。東京の「私、台風がすきなんです。」とのたまう方の方向に行ってくれれば、台風も吹きがいがあるだろうに、そっちで引き受けて、、、。

 ではまた。
【2005/09/04 21:59】 | 観戦記 | トラックバック(0) | コメント(3)
ボランテヤ活動、FBハウスのオーナーのこと


黙々とジュニアの指導をする若き人。我が町のクラブある日の一こま。
表題とは少しづれます。

 (ボランテヤ活動ー我が心の軌跡ー菊池楓風園)

 若い日に、全国的にも有名になったハンセン病患者施設「菊池楓風園(きくちけいふうえん)」に、中学校分校があり、その本校に赴任した私は、園へ出入りするようになりました。
 昭和46年から49年にかけてです。もうそのころ、ハンセン病の事は詳しく知っていましたので、うつることはないし、昼間から分校の職員室のビールを、勝手に校長と一緒に飲んだり、(今だったら不祥事で処分だ)。一番の思い出は、職員用テニスコートが2面あり、夏休みは整備道具(ローラーやら天幕、椅子など)をそこに運び、森に囲まれたコートで呼び寄せた部員と打ち合っていました。
 
 詳しくは知りませんが、出会ったここの3人の子供たちが日本で最後の方の新患者と言われています。 
 その後彼らは高校へ行き、全快し社会に出ました。彼らはその時偽名でした。その偽名を呼びながら、子供の頭をなで、手を握り励ましていた校長の姿を思い出します。立派な人でした。
 
 子供が偽名を名乗らざるを得ない差別の構図、この事実だけでも子供を持つ親として、私は声を上げ叫び出したくなるのです。(最近宿泊差別事件など起こりましたが、)その悔しさ、悲しさを知っているかと。

 残念ながら当時、テニスコートに出てくる患者さんはいませんでしたが、隣の国立療養所の患者さんが来て、生徒に教えてくれたりしました。
 ここでの経験は貴重で、アイスクリームを部員と木陰で食べたり、避暑地のような環境がすてきでした。
 
 先日、通りすがりに園に入り込みました。コートは短い草が生え、テニスコートではなくなり、ただ木製のポールだけが4本残っていました。分校舎は一部だけ残って倉庫になっていました。

 園は昔も今も誰でもいつでも入り込むことが出来ます。
 
(あなたが必要です)

 このような経験をベースとして、私は30歳で深刻な友人の躁鬱病に向き合います。病院のケースワーカーが私に聞きました。
 「あなたのご友人の事は詳しく聞きました。あなたはあなた自身のことをどう思っていますか?」どう答えていいかわからず、私は私の評価をせざるをえません。
 私「今日は相談するために休みを取ってきました。これまでも夜45キロの道を往復し、彼のために動きました。こんな馬鹿なことはするべきでないと迷います。自分はかなりお節介だと思います。」
 ワーカー「いや、この病気を治すにはあなたが必要です。あなたのようにこの病気を理解する人が身近に必要です。がんばってください。」

 迷っていた私はこの言葉でふっきれました。友人はその後10年、不安定な時もありましたが、ほぼ全快し、その間教員の仕事も続け、来年で定年です。
 この間学んだことは、もっとも助かったのは自分自身だ、と言うことです。本も読み病院のセミナーにも出かけ、またその後10人ぐらいの不安定な人と出会い、悲しい出来事もありましたが、今もいろいろな人の相談にのっています。

 続きはまた。
【2005/09/04 00:09】 | NPO福祉活動 | トラックバック(0) | コメント(0)
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