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ソフトテニス界の放浪詩人アゴイ!のブログです。
四国訪問超特急
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 さて、この写真は?
 愛媛県伊予市佐田岬半島につながる国道沿い、海は伊予灘。地名の標記が目にとまり引き返して、パチリ。「富貴」と書いてありますが、読みは「とみき」。自動車は愛車「プリウス」

 「富貴」かあ、ふーん。富んで貴い。ほどほどに富んで、人間として貴人と言われたいが、今のところ貧乏で奇人(らしい、他人の評価はあてにならない)。

(四国バイク陸送の旅成功)

 さて、無事息子に渡す90CCバイク陸送は成功でした。ボロボロなのですが修理して乗るという、息子の「もったいない」という精神を尊重して、廃車手続きをして運びました。
 宅配すれば、15000円ぐらい(未確認)ですが、孫の顔見たさに、四国超特急。
 おみやげを満載し、修理代を援助して、孫に何か買ってねと、多額のお金をかけ、時間をかけたのに、やっとたどり着いたというのに、孫娘(10ヶ月)は私の顔を見るなり、「わーん!」と迫力たっぷりの泣きっぷり。
 1泊では慣れず、別れるときも抱こうとすると、「わーん!」

 お父ちゃんのお父ちゃんだよ。おまえの1/4はわたしなんだから、、、と言っても通じるわけなく、爺役もつらいもんだ。

 ソフトテニスとはなんの関係もありませんが。刺激的な日常ではあります。2台のバイクがなくなって、さあ倉庫が空いたぞ。工房が作れるぞ。以前書いたことのある、ガット張り、グリップ製作工房をどうにかしようと思います。 さてあとは行動あるのみ。

 朝、7時に松山出発、(今回は詩人との出会いは出来ませんでした。実は来週日曜日に自宅で語る会があるとか、、残念)伊方原発のある佐田岬を経て三崎から大分佐賀関へ出て、やまなみハイウエイを楽しみ、午後3時我が家到着でした。

 ではまた。
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【2005/06/27 17:07】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(2)
水不足のなか、学校田の田植え風景
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 九州北部は梅雨入りから1日しか雨が降らず、日に日に気温も上がり今日は35度!!そんな中6/24遅れていた学校田の田植えです。5年生の子ども27人が水着(着る物を持っていないからではありません、暑いのとあとで泥汚れを洗い落とすのが簡単、念のため解説)で田植えです。
 週間予報も雨の兆しなしです。たいへんなことになりそうです。
 7/2に東京のオフ会では、熱く語りながらも、西の空に向かってだけは雨乞いをしておいてくださいませ。

(さて、バイク陸送)
 この前400CCのバイクを息子が東京まで陸送したのですが、
廃車にしていた90ccのバイクを送ってほしいと、四国松山の息子が言ってきました。
 孫の顔を見たいと思っていましたので、よっしゃ陸送してやるわと、寸法を測ると、プリウスのセカンドシートを倒すと乗りそう。
 
 近所の男性が通りかかったので、5分間だけ手伝って、と頼むと、開口一番、「こりゃばらさないと入らないよ。」「まあまあ、必ず入るから」と、うまくベニヤ板やら古いじゅうたんを使って、スライドさせると、入りました。大成功!
 プリウスに乗る人、たくさんいますが、90ccのバイクを横倒しにして押し込んで乗せて走る人、あまりいませんよね。

 明日来るから、家に居てくれ。と四国の息子に電話。どうやって入れたの、いや別に簡単だったよ。これでまた親父の権威があがったぞ(笑)、なんのことはない孫に会いたい一心ですがな。
 
 来週、中学の郡市中体連なので、また忙しくなりますので明日6時家出発、9時のフェリーで八幡浜へ12時半頃松山息子宅へ到着予定です。
 息子の家近くに住む詩人坂村真民氏(95歳)に逢いたいと思っていますが、こちらはうまく行くかどうか。
 月曜日は仕事休みます。
 息子のPCからアクセスするかもです。
 ではまた。
【2005/06/25 20:46】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(0)
懐かしの昭和30年代 その4
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田舎風景、さてなにをしているでしょう?
実は竹酢液作りです。液は自然の消毒薬や虫除けになりますね。現代の春まだ浅きころの、熊本の風景。(我が家近く)
 
(O先生との行き合い)
 さて郡市で勝った我々は、初めての宿泊しての遠征をすることになりました。県大会なのです。当時全国大会はなかったので、中体連組織の大会はこれが最高峰。
 もう、田舎の中学生はウキウキです。秋も深まった11月のいつだったのでしょう、前日に大会場を見に行きました。熊本市の住宅街の一角にありました。4面のアンツーカーコート。もう舞い上がるような立派なコート。
 さて、1回戦、こちら監督はいないと言ってもいい顧問の教師、あちら若くて顔の長い異相の監督。白い帽子をかぶっておられました。結論を言うと、我々ひ弱な田舎のぽっと出のチームで簡単に一蹴されました。とても歯がたたん!と言う印象でした。
 確か、この相手チームは3位かに入賞したのでした。
 
 この監督さんこそ、なんとなんとその後チヨコさんやえりっちさんの監督となられる人だったのです。数々の実績を残していらっしゃいます。
 実は私22歳から延べ10年ほど中学の指導をするのですが、この異相の人、負けた悔しさもあって、顔を覚えてしまい、大会場でよく会うので、どういう人であるかも知っていましたが、話すことはありませんでした。
 しかし、最初の出会いから34年後、息子のチームを保護者として沖縄に引率、ホテルで夕食の時、すでに息子を通じて知り合いであったのですが、指導されていた中学チームを引率されてきておられたO先生に、ビールを持ってあいさつしながら、「実は先生が新任校だと思うのですが、私達と試合をされたのですよ。」と言うと、ずいぶん驚かれ、「覚えていない、新任校は確かにその通りですが、いつ県大会に出たのか、まったく覚えていません。」
 しかし、とても喜ばれ、「帰ったら調べます。」と。その後出会うと真っ先に私のところに来て、「確かにその通りです。」と言ってくださいました。
 あの時夕食をいっしょにすることがなければ、人柄を深く知ることもなく過ぎてしまったでしょう。また、苦労して出た県大会1回戦の相手監督が、このようにすばらしい指導者であったことを、嬉しく思います。
 
 最初の出会いは昭和38年の秋のことでした。

(中学3年生)
 キャプテンとなった私はいろいろとプレッシャーに悩むことになります。後衛をするようになりました。昨年2年5人、3年1人のチームで県大会へ出たので、ローカルでは勝つのが当たり前となり、自信もあったのですが、ある小さな大会で、私は決勝でパニックをきたし、無惨な負け方をしました。
 もともと、そう運動神経はいい方ではなく、頭で考え得すぎる傾向が強い私は、プレッシャーでおかしくなったのです。
 39年秋、勝つことが当然視されていた郡市大会、私は徹底的に縁起を担ぎ、すべてを昨年と同じにしました。ユニフォーム、ラケット、靴下、さらに同じ会場だったので、同じところで休み、同じところでウオーミングアップをしました。

 結果再び優勝!事件はその後起こりました。夕方帰りの定期バスを待っていると。気分が悪くなり、まず鼻血が出ました。めまいがして立っていられなくなりましたが、友人に支えられ、どうにか家に帰り着き、そのまま4日間寝込みました。
 診断は過労。勝たねばならない、負けたら恥ずかしい、2度と失敗は出来ない。あの時なぜ負けたのか、等などと思い詰めた結果でした。

 子どもでもここまで考えるのだ、と今も思います。決して自分だけがそうなのではなく、子どもだって好きなことのためにはあらゆる手段を考える力があるのだと言うことです。

 県大会の直前、1番手の後衛T君が急に熊本市に転校してしまいました。今であれば、どうにかして大会が終わるまで、いろいろ引き留める方法もあるでしょうが、当時はすべてが貧しい時代、そんな発想も浮かばず、泣く泣く別れました。
 2年生で穴埋めし、大会には参加しましたが、戦力の大幅な低下は免れず、またもや1回戦負け。翌年も後輩ががんばって出ています。
 ほんと、こうやって回想すると、自慢に聞こえますが、中学時代劣悪な環境で指導者もなく、熱意だけで良くやったと思います。
(先輩高校生から時々教えてもらうこともありました。)

(オリンピック)
 昭和39年秋、東京オリンピックは白黒テレビで観戦しました。
あの、「東京オリンピック行進曲」は今でも好きですね。あんなすばらしいマーチはないと思うのですが、もっと使えばいいのにね。
 「心も浮き立つような、古関裕治作曲、東京オリンピックマーチに乗せまして、、、」と始まるNHKの放送はその後レコードになり、何度も聞く機会がありました。
 
 マラソンでアベベが優勝、続いて競技場に入ってきた、円谷幸吉選手が、トラックでイギリスのヒートリー選手にぬかれるときは、その瞬間には学校の体育の時間テレビで観戦、全員が悲鳴をあげました。
 
 ではまた、懐かしの昭和30年代シリーズは一応終わります。
【2005/06/23 00:07】 | アゴイの少年時代 | トラックバック(0) | コメント(4)
懐かしの昭和30年代その3
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(我が社のショートテニス風景5月)スマッシュを決めたつもりが、左はるかに飛んでゆきました。(表題とは関係ありません)

(村の同級生)
 男子3名、女子1名、幼なじみがおりました。いや正確に言うと男子の一人は銀行員の息子で、小5ぐらいの時、やってきて、住み着き、やがて中3の秋熊本市に引っ越します。
 何の因果かこの4人、中学でソフトテニスを始めます。村のそれぞれの配置は女の子の家を中心にすると、私とH君が50mほど離れ、もう一人のT君は200mぐらいの位置関係。つまり、半径200mに皆治まるのですが、4人はすべて、なんとインターハイに出るのです。(T君は熊本市内某高校から硬式で)
 インハイは42年の夏ですから、この話とずれるのですが、いくらインハイ県代表10組わくの時代、こんな同級生も珍しいと思います。
 保育園(1年保育)以前からのおつき合いでしたが、私とH君が村で生活、女の子は今のTOTO(小倉)に行き一般でがんばりそこに住み着き、T君は熊本市内で生活。

 (中学時代)
 振り返ると、劣悪な環境でやったもんだと思います。統合され1年目の学校、まず運動場がない。もちろんコートもない。統合前の古いコートでレギュラーは練習。我々はコート作り。整備じゃなくて作り。まずはピタゴラスの定理、3,4,5mの巻き尺で直角を出す。ラインを引く。四角形が本当に四角かを計るために対角線の長さを確かめる。次に木製ポールを埋めるための穴掘り。
 ようやく出来上がり、水たまりで傾斜を見て、ならして1ヶ月。コートらしくなると学校の都合で引っ越し。ひどい経験でした。
さらに、2学期になると高台にテニスコート専用の土地が造成されました。喜んで行って見ると、ブルトーザーがならしたあと、石がゴロゴロ、排水溝もなんもない広場。高台にあるのに、フェンスもない。
 結局ここに落ち着くまで5面ほどコートを作りました。今思うと貴重な経験であり、(腹の立つことでもあり、)私たちはもしかしたら世界で一番、ソフトテニスを愛していたのかも知れません。

 このコートも前述のようにフェンスがない。崖があってボールが落ちる。何とかしてくれと言っても顧問は動かない。よしと決意!冬の日曜日、我々は山から竹を切り出し、顧問にはだまって、フェンスを作りました。学校近くの山は勝手に切れないので、自分の家の山から竹をはるばる運び、細工をしてやっと20mぐらい作りました。
 さすがに顧問もびっくりしたのか、その後を職人が作ることになり、希望を聞きに顧問が来たのを思い出します。

 都会では考えられないことでしょうし、いくら昔と言ってもそこまでやる子どもいませんでしょう。でも、テニスをやりたかったし、強くなりたかったのです。

(2年生5人、3年生1人)
 さて、中学2年生になった我々は、理由は忘れましたが、3年生が1人というチームになっていました。その3年と組んだのが私、前衛でした。理由は背が高いから。この先輩はとても人柄がよく、我々はモトちゃんと言って慕っていました。とてもうまい人で、我々が一番手、次が前述のT君とH君のペア、当時T、H君はともに150cmぐらいの身長しかなかったのですが、特にT君は、中2ながらすでに見事なトップ打ちが出来ました。
 秋の郡市大会(昔は郡市、県大会は秋でした。全国大会はまだなかった)は、この2組が準決まで全勝、決勝はとてもかなわないと思っていたチーム。全員3年で占め、ぼかすか打つ打つ、気合いは入っているし、身体は大きいし、、正直言ってびびってました。
 しかし我がモトちゃん、少しもあわてず、オーダーを1,3,2と決め、向こうは2,1,3と出して来ました。我々は激戦の末、勝利!続く2番目は吹っ飛ばされましたが、3番勝負、T、H君の奮闘は今でも記憶に残っています。平均身長は20cmぐらい低いのに、粘り抜き、少しも打ち負けることなく、どうどうと渡り合い、相手を翻弄。勝利! 
 狂喜乱舞したのは言うまでもありません。

 しかし、団体の最後のあいさつの時、相手チームの一員がよほど悔しかったのか、礼をしたとたん、ボールを地面にたたきつけ「ちくしょー!」と怒鳴ったものがいました。
 我々はいっせいにびびり青くなりました。しかし、当然問題となり、向こうの顧問の先生が謝罪に来られ、我々にたいし、私たちの分も県大会でがんばってください。とおしゃいました。

 経験の浅い我々も、勝てば公的な立場となり、代表としてしっかりせねばならないと、責任を強く感じた最初の出来事でした。この3年のモトちゃんも、私と別の高校ですが、41年夏の青森インハイに出場しています。元気かなあ。  

 ではまた。
【2005/06/20 20:34】 | アゴイの少年時代 | トラックバック(0) | コメント(0)
熊本レポート
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 05熊本県総合選手権準決勝、浦○、K園組、県総合運動公園コート。(画像添付了解ずみ、もっとアップでと注文受けましたが、、、、)

 本日午後2時まで熊本市内で会議があり、すぐここに駆けつけると、例の熊工組(インハイ予選5位入賞組)と天下の強者K選手たちが戦っていました。
 一方的な4-0で、K選手らの勝利。熊工の選手ショックだったようで、「いい目標だよ、何でも習いに行けよ。あそこまで行けば、まず負けることはない。」と高校生らを励ましておきました。

 K選手、あらためてすばらしい選手と感激しました。ボール1本1本が生きているようだ、は熊工の保護者の言葉。
 
 最後まで見なかったので結果はわかりませんが、いい一日、いい出会いがありました。
 あーえりっちさん親子とも出会いました。
【2005/06/19 18:04】 | 観戦記 | トラックバック(0) | コメント(0)
懐かしの昭和30年代その2
 (30年代をなぜ振り返るか)
 最初に書いた通り、自然保護団体が昭和30年代に戻るべき、などと訴えるのを聞くと、ある意味その幸福な時代を生きたものは、そうだよなー、昔はよかった!の式で、ついそう思うこともありますが、実はいろいろ振り返ると、単純によかった、とは思えません。
 その時代、時代はせいいっぱい生きてきたので、いやなことや悲しいことは封印してしまいたいのですが、現在まで続いているいろいろな問題を封印しては、同じ間違いを犯す可能性があります。
 ですから、感情を出来るだけ排除して振り返っておきたいのです。
 でも、私は一生活者、取るに足らぬ存在でもあります。あまり大げさに構えず、単に思い出として、書いている部分が大半ですので、読まれる方も、そのおつもりでお願いします。

(水俣病のこと)
 昭和30年代、熊本で最もニュースとして取り上げられたのは、この水俣病のことでしょう。連日聞かない日はないぐらい。チッソ水俣工場の廃液が原因であると国が公式認定したのが昭和43年でした。水俣市は私の住む町から県内で最も遠い位置にあります。
 ですから、意識的には遠い出来事でしたが、ニュースのおかげでその経過のほとんどは記憶することが出来ました。
 チッソ工場は何を生産していたか?毒を生産していた?まさか!
そうです、肥料工場でありました。一方で主として石油を原料とする化学製品を作っていました。代表的なものが、可塑剤と言われるものです。ビニールホースというのものは戦後発明されたものですが、当時は冬は固くなり(今でも安物はそうなりますね)、古くなると使いにくいものでしたが、原料にこの可塑剤の添加により、家庭で使う水ホースは格段に使いやすくなりました。
 その他プラスチックの成形や加工をするのに使われます。被害10万人と言われる水俣病は、地域社会をずたずたに引き裂きましたが、一方でその原因となった工場は、人間の生活を便利にするものを生産していました。今日、プラスチックを使わない家電品などあり得ないでしょう。このキーボードもそうです。PCも、プリンターもね。
昭和30年代、たくさんの人がこの奇病と言われ、猫狂い病と言われた病気を解明するために、水俣に来ました。
 政治家も科学者も医者も来ました。しかし、公式認定から40年も立つのに、まだ解決をしていません。 

 我々は少なくとも、文明をもたらし、便利をもたらすものが一方では人間を破壊したと言う事実の1例として、また歴史上最も重大な被害をもたらし、なおも解決していないと言うことを忘れてならないと思います。  

(村の生活)
 村に100人ぐらいが集会が出来る公民館がありました。小学5年生ぐらいだったか、誰かが卓球台を寄付しました。たちまち我々の雨の日の日曜は卓球でした。うまい大人が教えてくれました。ラリーのやり方、カットサーブ、グリップの違い、カットの切り返し等など、私がソフトテニスに夢中になる土台が作られていました。
 少し、うまかったので中学では部活動は卓球をしようと決めていました。
 小学5年生はもう家の手伝いが出来る年齢でした。農家の子どもは嫌がる子ももちろんいたでしょうが、誰もが手伝いをさせられました。
 麦刈り、田植え、炎天下の水田の草取り、そして稲刈り、すべてこの2本の手がその仕事を担いました。機械は夢でした。30年代前半に田を耕すのは、ほとんど牛。馬もたまにいました。しかし後半になると、耕起作業に機械が導入されるようになります。
 
ではまた、今夜はこの辺で。
【2005/06/19 00:05】 | アゴイの少年時代 | トラックバック(0) | コメント(0)
懐かしの昭和30年代
 私は昭和25年生まれ、ものごころついた時は昭和30年頃、31年が小学1年生で、32年が2年と非常にわかりやすいのです。

(自然があふれていた30年代)
 今、ちまたではこの昭和30年代懐古が盛んです。自然保護団体の講演会に出かけたら、自然があふれていた30年代にもどろうなどとと言っていました。
 わたしにとっては、ちがいますよ、と言うのが率直な感想です。
 確かに今のように、自然破壊はすすんでいなかったのですが、今を作る基礎が進行していました。

 しかし、それを知るのはずっと後になってからです。
 
 私はたくさんの子ども同士で、集団となって野山を駆け回り、馬に乗せてもらい、牛の背中にくくりつけられ畑に連れて行かれて、親のまわりで遊び、山の今の時期なら山桃、秋なら椎の実(食べてました)ドングリ(くぬぎの実)樫の実、など集めてまわる少年でした。石組みの用水路は格好の魚取りの場となり、ショウケ(竹で作った農作業用のざる)を持って水の中をうろうろ。
 村の行事は兄弟とともに参加し、冬はどんどやが最大のイベントでした。考えてみると、あたりまえにやっていたことを今再現すると、テレビのローカルニュースになってしまうような内容ばかりです。

(戦争の影響)
 わかりますように、そのころは先の大戦の終了から10年とちょっと、あちこちに戦争の影がありました。私の兄弟は本当は8人。しかし、私の産まれる前に3人が物資の欠乏により幼くして亡くなり、深く傷ついた父母はそれから我々子どもの誕生日を祝うことはなくなりました。
 毎年祝うという習慣がもともと日本になかったのかも知れませんし、貧しかった周囲に合わせていたのかも知れません。ことさら、おめでとう、などと言い合うことはありませんでした。子どもは生きておればよい、と言う考えだったのでしょう。 

(親のいない子ども)
 戦争の影響は、多数の親のいない子どもを作っていました。我が家にも、従兄一人があづけられていました。実父は戦死、次の父親も病死、その彼の夜間高校時代、4年間一緒に暮らしました。
 今の子どもの比ではなく、そのころの高校生の荒れようなひどいものでした。小学生だった私にケンカの方法を教える彼、いつも鞄の中にナイフを入れていました。
 私の保育園入学の日、母に連れられていっていると、屈強の大人男性2名が母を呼び止めました。私を10mぐらい先のバス停のベンチに座らせると、なにやら話し合いを始めました。
 もちろん、後で知ったことですが、母は同居していた従兄のことで警察から事情を聞かれていたのです。母は私をダシに使い、従兄をかばった、と言います。母子にとって印象深い事件の日で、必死だったよ、とずっと後になってうち明けました。それで私もただならぬ母の様子の記憶がよみがえり、私がそれは保育園入学の日だろう、と言うと、よう覚えていたね、なんもわからんだろと思っていた。となつかしそうでした。
 この従兄は兄弟姉妹、埼玉東京で生きています。
 
 現在、少年犯罪が多発していると、マスコミでは言っていますが、統計的には少年犯罪は戦後一貫して減少しており、逆に成年以上の犯罪が多くなっているそうです。私も実感はしています。
 そのころを振り返れば、学校の荒れは現在の比ではありません。
荒々しかった毎日、決して昭和30年代はのどかな日々ではありませんでした。(ただ、現在の荒れは明らかに質がちがいます。)

なかなか、軟式庭球まで行き着けません。続きはまたに。
【2005/06/18 06:53】 | アゴイの少年時代 | トラックバック(0) | コメント(2)
刺激的な日常
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 表題とはあまり関係ない画像です。
 父母よさらば、熊本から東京へいざゆかん!ボーイスカウト式あいさつをして朝日に向かい出発する息子。

 後ろは我が家の母屋です。ログハウスは別棟となっています。

 刺激的な日常と書いたのは逆説というか、その反対で、きわめて田舎生活は退屈であります。と言うとこれまた、そんなことはないと反論ありそうです。

 この地はまちがいなく田舎であります。生まれ故郷であり、兄弟もいて、土地も所有し、家もあり、山林まで持っているという生活は、煩雑なことがいろいろあるのですが、何とか所帯を持って25年、生きてきました。
 
 本当はもっと農作業とかしたいのですが、仕事とその他のボランテヤで時間がありません。しかし、とてもおいしい食物と水と空気に恵まれ、高速道路は通っていますが、我が家は静かなところです。
 
 何を言いたいのかわからなくなりましたよ。ああそうそう生活の紹介です。こんな環境で暮らしているという紹介です。

 敷地1,370平方メートル、家は平屋110平方メートル、ログハウス48平方メートル、小屋1棟、ここの集落はほとんど、こんなパターンの家の構え(ログハウスはない)をしています。
 敷地は広いです。草取り草切り溝さらえと管理に追われています。しかし、いざイベントとなると実力発揮、80人の親子が集まってバーベキューパーテイが可能です。平均すると1年に2回ぐらいはしています。
 
 200mのところに温泉もあります。歓楽街はありませんが、腰痛、肘痛、肩痛、膝痛などでお悩みでしたら、湯治に来てください。私の家に滞在して自炊して、いかがですか。
 
 では今日はこれくらいで。
【2005/06/14 21:57】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(7)
ジュニア県予選、国体一般最終予選
 (プリウス)
 私の車はハイブリッドカープリウス、出始めに買ったので、買ったばかりの時は、一日走っても、プリウスに会わない日もありましたが、このごろは6分の通勤時間にでも2台も会うという増え方。
 この車の評価は様々ですが、18ヶ月で35000キロ、平均燃費23,5キロぐらいですので、何とか5年ぐらい乗れば、値段の差は取り戻すでしょうが、果たして?
 高速も100キロ以下で走らないと、いい燃費となりません。
 時間に余裕があるときは、燃費を伸ばすために高速もゆっくり90キロぐらいで走ります。

(八代市)
 「やしろ市」ではありません。(歌手八代亜紀の生まれ故郷)やつしろ、またはヤッシロ、地元の人はヤッチロと言います。
昨日、3年ほど前に出来た運動公園でジュニアの全国大会予選が行われました。江戸時代から今日まで営々と続けられている干拓地帯のもうほとんど海の近くにコートはあります。
 そこまで、私のところから85キロぐらい、約1時間。
 燃費24,5キロ。

(たくさんの成果)
1)えりっちさんと「ブリッジの集い」の実行委員会が出来まし た。
2)我が町のジュニア男子、久しぶりに団体優勝!個人も1位と3位。女子は2回戦まで。団体は選抜で全国に出るので、2組が全国(奈良)に出場。
3)同時に行われていた国体最終予選に、有名な浅○選手、東京W大の園○選手、福岡S大の東○選手(我が町ジュニア出身)らのプレーを観ることが出来ました。
4)また息子同級と会い、握手、握手。その保護者も来ていて、握手、握手。
5)浅○選手にブリッジを時々は見てくださいと話しかけときました。
6)熊本工業女子(先日インハイ団体出場を決めた)が強化練習やっていました。これも見応えありでした。
前衛の練習をベテラン国体選手から指導を受け、基礎からやっている印象。あ、これは機密事項かな。(笑)
7)浅○、村○組vs園○、東○組の火の出るような試合を観ることが出来ました。浅○選手ちょっと不調でしたが、3-1から挽回して、ファイナルで押し切られたという印象。

(家族)
 w大s君、1位でしたが、ちちはは様、また双方のおばあさま二人、久しぶりの孫の応援に来ておられました。じっとすわって静かに日傘をさして、s君の動きを目で追っておられ、あとで思いついたのですが、もっといい環境でみてもらえればよかったなあ、とおもいました。s君は八代から15キロぐらいの町の出身です。
 この町からは全国で活躍する、あるいはした選手がたくさん出ています。

 梅雨の晴れ間の一日、ご機嫌でまた、ゆっくりと帰りました。
【2005/06/13 06:09】 | 観戦記 | トラックバック(0) | コメント(7)
読書の時間です。
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 高校全国選抜会場名古屋レインボーホールです。

 表題と関係ありません。下で熱戦が行われていますが、天井がすてきですのでちょっと提供しました。

 今日はじすたさん推薦の「亡国イージス」を上下買ってきました。昼休み読み始めたらおもしろくて、止まらなくなりました。
 また、感想を書きます。

 小4の時、「レ、ミゼラブル」で涙し45年近く、最近めっきり涙腺が弱くなり、浅田次郎の「壬生義士伝」にこれまた涙涙。この間膨大な量だけはこなす読書ですが、乱読つん読。
 古本屋で北原白秋全集全26巻を○万円で買ったのに、1巻を読んだきり、あとは作品の索引に利用しているのみ。どもいかんですね。
 仕事仲間に哲学科出たやつがいて、永畑道子監修の「思想の海へ」を1巻だけ持って読んでいました。おう君ー、それ僕全巻持っているよ、とカッコつけると、すっかりだまされた彼は私を神のごとく尊敬崇敬。第1回配本は一応目を通したが、あとは全然ダメでまだつんどく状態。

 詩集は昭和万葉集全巻があっただけで、他は一冊もありませんでしたが、このごろ坂村真民(さかむらしんみん、我が家近くの出身で今愛媛県松山市のとなり、久万町に住んでいる、95歳)詩集を2冊読了。詩集を読み始めた詩人?
 
 吉川英治の「宮本武蔵」も5回は読み返しています。これはソフトテニスのために。
 プレッシャーに動じないために、あるいはプレッシャーを我が力とするためには、我が心を高め、人間性を豊かにする以外ないと思います。
 大一番の試合の前に1冊の本を読む、映画を観る、コンサートに行く、デイトする、美術館に行く、効果はあると思いますね。
 練習、訓練なしには勝てませんが、それだけでも勝てないと思います。                            さて、読書の時間です。
 とうとう九州は雨が降り始めました。  
【2005/06/10 20:53】 | 刺激的な日常生活 | トラックバック(0) | コメント(6)
ショートテニス風景
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 アゴイ!です。
 熊本はインハイ県予選すべて終了しました。

 本日、知人のむすめさん(前衛)個人も2年生ながら5位に入賞、代表権を獲得。昨日から後衛がお腹をこわし、16本が決定するとそのまま病院でした。もう明日はダメだ、と昨日言っていたのに、今日は最初ふらふらだったのが回復し、4本決定は負けたものの、続く敗者4本でのリーグ戦で全勝。見事な成績でした。

 工業高校の女子部がインハイに行く例というのは、今まであったのでしょうか?それも創部確か7年目です。世の中変わりますよ。

 団体、個人3組が行きます。

 ところでショートテニス、画像で紹介します。広々しているようですが、本当はせまい(バトミントンコート2面分とバックコート両方2mぐらいの広さです)のです。ここに今日は16人が来ました。手作りも既製品もラケットは出払い、ボールも出払い、昼休みが終わると、屋根に上がったボール以外きちんと還ります。今日は合格!
 
 はてさて今後どうなることやら。ボールは黄色のスポンジボールを4個初めて使いました。1個250円ですので、これがいいかな。
【2005/06/06 21:21】 | ソフトテニス | トラックバック(0) | コメント(6)
沖縄島人
(穴生ドーム)ーー文体を統一します。だ、である調に。
 
 北九州市黒崎にコート6面が取れて、バックコートの広々としたドームがある。床はオムニだったと思う。
 1996年12月、ジュニアの九州各県の代表が集まって、九州ナンバー1を決める大会が開かれた。息子は5年生で選手ではなかったが、応援と子どもたちの世話のために私もそこにいた。
 少ない観客、応援だったが初めてのドームでの試合で子どもたちも、張り切っていた。
 隣の集団は沖縄県選手団だった。その中にI島出身のI君がいた。小学6年とは思えない巨漢で、高校生みたいに打ちまくり、他を圧倒、おそらくこの大会一番の後衛だった。
 
 お互いに勝ち進み、決勝で会うことになった。このI君をどう攻略するか、我々の戦いの重点だった。総合力で勝つ、と言うのが方針。それまで調子のよくなかった1番手前衛S君が萎縮しないで出来がよければ、何とかなる、と思っていたら、予想に反し、I君と対決したS君は決勝本番、がぜん打ちまくる取りまくる。
 親たちは「神様仏様S様!」と感嘆。2番目も沖縄を圧倒、晴れの九州大会団体優勝をものにした。

(チョコレート)
 大会途中、沖縄の親たちから我々の子どもたちにチョコレートのプレゼントがあった。皆珍しいので大喜び。しかし、こちらから返す物がない。何かないかと探したら、1枚だけ町が作ったテレカが見つかった。(その後遠征の時は町の名の入ったタオルとか持参するようになった。)そのやりとりの中で、I君のお母さんと話した。
 私「I君はすばらしいですね。中学、高校と続けさせてください。きっとインターハイに行けますよ。」「ハイ、体格はいいけどね、どうだか。」私「もしかしたら、インターハイでまたお母さんと会えるかも知れませんね。その時はぜひ会いましょう。」
と言って別れた。
 大会後夕方スペースワールド(北九州のテーマパーク)で再び会い、親子で楽しくしておられ、こちらもまた親子で最後は手を振って別れた。

(岐阜インターハイ)
 それから4年後、なんとその日は本当にやって来た。暑い中、会場をうろうろして、頭のどこかにあの選手も2年生だ、もしかしたら来てるかな、と考えないでもなかったが、正直言って忘れていた。
 混雑する応援席で立ち見をしていたら、突然、沖縄の人らしい、日に焼けた丸っこい姿の女性が私に近づき「熊本の方でしょう?沖縄のIです。」「はてどなた?」にこにこして「北九州市で息子が小学生の時試合したIです。あなたがインターハイで会いましょう、と言ってくださったので、今日は探していました。」やっと思いだした私が感激の握手を繰り返したのは言うまでもない。

 聞けば、I君は島から沖縄本島N工業高校に進学、2年でインハイ沖縄個人1位となって来たと言う。
 
 熊本インハイへの参加と出会いを約して、感激の対面は終わった。

(その後)
 実はその後会っていない。2002年、追っかけで沖縄を訪ねたが、消息は聞けなかった。どうもI君は2年生の秋ぐらいでやめたらしい。
 「島においで。空港から電話すれば、近くだからすぐ迎えに行くよ。」と人なつっこく言われた笑顔が忘れられない。「I島に行ったら必ず電話しますから。」と応えた約束も果たしていない。

 I君と離島I島からはるばる応援に来ていたお母さん、お元気ですか。(I君は大学に行っていれば4年生の年齢。)

ではまた。
【2005/06/01 19:29】 | 観戦記 | トラックバック(0) | コメント(2)
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